ひどい!許せない!人権無視だよ!!
と全然他人のまめこが怒った。
「嫁は奴隷」と考える義母と暮らす同居。想像を絶するエピソードの数々。
うそでしょ?うそであってほしい・・・
ヘンゼルさん、よくがんばりました。幸せになってください。
ひとりでもこんな辛い思いをする同居嫁が世界中からいなくなりますように!!!
同居嫁は奴隷?! 義母の命令は絶対で流産・・・別居後も介護はやり切った
同居形態 完全同居(玄関・風呂・トイレ・台所一緒)
同居メンバー 自分(当時)23 夫(当時)28 養父(当時)60 養母(当時)58
同居歴 1年半
私はシニア世代で、同居をしていた時期はもう40年近く前の話ですが、このタイトルを見つけてどうしても私の話を書いてみたくなり参加いたしました。
というのも同居していた時期はたったの1年半ですが、今でもずっと心に残り、私の一生の心の傷となっています。
同居1年半、その後転勤などを経て近くでの別居28年、介護9年近く過ごしました。
当時若かった私は義両親の言うことに逆らえず、されるがままのとてつもないいじめにあったのです。
嫁を奴隷扱いした姑を絶対許さない
まず、義母は「お前は奴隷と一緒だから、私が死ねと言えば死ぬこと」「病気をしたら離婚」など数々の事を新婚旅行から帰ったきてすぐに言われました。
まず、そんなことを言われることに驚きましたが、長く義母から結婚を反対されていた私はやっと結婚できた喜びのほうが強くそのまま聞き流していたのです。
それからの生活は本当に奴隷のようでした。
私の事はすべて義母の命令どおりに動かなくてはならないのです。
朝起きる時間から洗濯物の内容、着るもの、食べるもの、トイレの時間、風呂の時間、寝る時間、全て指図です。
段々と私の気持ちは沈み、どうしてこんなことになってしまったのかと精神が病むような状況になっていきました。
ある日のこと、親戚の人に義母が言っているのが聞こえたのです。
嫁は最初が肝心だ。
まず、結婚を反対すること。そして渋々許すこと、そうすると嫁は遠慮をするから。
そして、結婚したら何事も最初が肝心なので、とにかく厳しくして頭があがらないようにすること。
そう言っているのです。
それを聞いていた親戚の人は黙ってきいていたけど、どう思っていたか… もちろん昔のことですが、その当時でも、もう私のような嫁の扱いは世間的に批判される風潮でした。
同居嫁の食べ物の恨みは深く。ろくな飯与えられなかった日々
そして、何より私が心に残っているのは、「人間、やはり食べなきゃ生きていけない。食べ物のうらみは一生残る」ということです。
自由に食べることができなかったのです。
炊飯器の開け閉めをして壊されると困ると言われ、ほんの少ししか食べていないのに、近所の人に「うちの嫁は沢山食べるから困る」と言いふらしていました。
そして、与えられるものが腐ったものとか、まずいもの、食べ残しばかりでした。
私は当時、働いていたのでその腐ったものばかりをお弁当箱に入れて持っていき、全部捨ててお昼はパンなどを買って食べていました。
仕事が終わると、買い食いをしてお腹をそこそこの状態にしてから帰っていたのです。
お給料はすべて取り上げられていたので、私にはお金がありませんでした。
でもパンや買い食いをするために、お給料の明細をごまかしていたのです。
当時はもう銀行振り込みでしたが、義母からどうしても現金でもらってくるように言われ、会社に無理を言って現金でもらっていました。
給料計算をするのは私でしたから、明細を書き換え現金をぬいていたのです。
そのお金で買い食いをしていました。
夫は何をしていたの?と思われるでしょうが、その当時、夫は親に頭が上がらず、自分の給料もすべて親に渡していたので、まったくお小遣いがなく、毎日仕事が終わってからパチンコに行ったりして自分の小遣いを稼いでいました。
流産は義母のせい。単身赴任でも同居嫁は残せと言われ・・・
もう一つ、どうしても許せない事があります。
結婚してすぐに妊娠したのですが、すごく重いものを運ぶように言われたのですが、あまりにも重いのでできない旨を言ったらすごく怒られ、どうしてもしなければならないと言われました。
仕方なくしたのですが、そのため切迫流産、そのときは安静にしていたなんとか収まったのですが、妊娠8か月ころにあまりにもひどく怒られることがあり、ショックでまたまた切迫流産となってしまいました。
そんなことあり得ない話だと自分でも自分の置かされている立場が信じられずに、ずっと心が沈む毎日でした。
離婚決意からの別居。姑を介護して見送った
そんな時、夫が転勤になり私は喜んだのですが、またまた義母が単身赴任で行って嫁は奴隷として家に残しておくように言ったのです。
その言葉で私は離婚を決意したのです。
でも、夫の説得で家族で転勤いたしました。
転勤したあと、5年ぐらいはずっと夢にでてきたり、心の傷として思い出さない日はありませんでした。
今でも私の一生の傷です。
ずっとひきずって生きています。
転勤後、また義母の近くに戻ったのですが、同居は考えられませんでした。
そのとき、実の母が言ったことが忘れられないです。
私の母も古い人間ですから嫁姑の争いは良くわかっていました。
母が言うには、普通なら嫁が我慢をしなさいと言わなければいけないけど、私の義母はひどすぎる、あり得ない人だと。
あそこまでひどいから別居ができるんだと。
中途半端ないじわるならこの時代は嫁が我儘だということになる。
却ってひどい人でよかったのではないか、変な言い方だけどここで別居できるのだから義母に感謝をしなさいと。
変な話ではあるが、確かに!と思ったのです。
そして、母が別居ができるんだから、この先義両親が病気になったらお世話だけはしなければいけないと言われました。
言われたとおり恨みは一杯あったけど介護をして見送りました。
私の話は今の若い人にとっては昔の話だからと笑われそうですが、何年経っても忘れることができずにいる人もいるんだということを知ってもらえればと思っています。
コメント